金田治のスケッチ日記

裸婦クロッキーを中心に、絵を描いていて気になったこと、絵を取り巻く様々な事柄など、思考の簡単なスケッチをしりとり風に繋いで書いています。


芸術は個人のものというのが私の考えですので、政治化する芸術はプロパガンダや洗脳の類と感じ警戒することにしています。タトリンやデュシャンやモンドリアン等の作品は皆美しいのですが、抽象化し政治化したモダンアートには怖さを感じてしまいます。政治が個人を押しつぶしてしまうような強引な理由付けやとてつもなく盲目的な時代性の宣伝を感じるからです。1930年代戦争に向かってゆくときのドイツの映像を見るような戦慄を覚えるのです。あの空間に自分が投げ込まれたらどこまで個人でいられるだろうかと恐ろしくなるのです。美しくもないモダンアートになると恐怖は更に増してその場から直ちに立ち去りたくなるのです。




AP1012988

by カネダオサム


ブログ村 ランキングに反映されますので下アドレスのクリックお願いします



ルネッサンス絵画の魅力は絵画に現れたルネッサンス精神です。17世紀以降の絵画では技術が向上して描写、キアロスクーロ、構図、物語などそれぞれ先鋭的な発展や習熟がなされましたが、根本にある人間の尊厳と自由の行使というルネッサンス精神が希薄となり、管理統制の行き届いた官僚的な世界観での展開となりました。その状況は絶対王政から民主主権に変わった今でも異なることはありません。現代ではまともな精神を持った人間性は排除され、狂気や偏執、無頼や逸脱だけが個性と認定され、人間性を表すものとして制度化されています。既存の制度を破壊するのが芸術の目的であり芸術の政治的な役割と宣伝されるからです。政治は常に全体主義的です。この制度になれば豊かになれる、あの制度では安全でないと言った議論で、相手を打ち負かすために絶対論を振りかざします。人間精神など入る隙間もありません。そこで、ルネッサンスは死んだと感じ、その芸術が懐かしくなります。




AP1012969


by カネダオサム


ブログ村 ランキングに反映されますので下アドレスのクリックお願いします


すべてのメディアは人生と関わっているでしょう。若者向けのメディアはまだ観ぬ世間、社会への参加を促す情報に溢れています。流行のエンターテイメント、ファッション、フード、音楽や旅行など、それが人生の世界であるかのように伝えます。最近はそれにSNSの情報が近未来的なヴァーチャルな世間として現れています。中年には資産や健康が社会や人生の目的であるかのように伝えられます。社会が健康であり社会から請われる人生であることを皆が願ってメディアが成立しています。そうした日々、進歩し発展してゆく情報に反して古い文学や音楽、絵画などは個人としての人生を見つめているのでしょう。社会から称賛されることで満たされている人には、ことさら個人である必要はないかもしれませんが、社会と関わることだけでは満たされない自己を抱える者にとっては芸術や信仰のメディアは必要なメディアです。その結果として、情報の質の違いが、絵のスタイルの違いを決めているのでしょう。過去にそれら作品が作られた経緯は社会的なものでした。ルネッサンスの絵画は権力や財力を世間に対して誇示するためであったかもしれませんが、その結果生まれた作品は驚くほどに個人の人生をも表しています。



AP1012694

by カネダオサム


ブログ村 ランキングに反映されますので下アドレスのクリックお願いします


20世紀には美術は多方面に発展しました。絵画を名乗ったものもデザイン全般に広がり、視覚メディア全般を絵画の名で語るようになりました。ヴィジュアルコミュニケーションとして絵画が位置づけられるとグラフィックデザインやテキスタイルデザインの明確性が絵画を凌駕し、本来の絵画であったかのように評価されるようになります。マティスの作品がテレビで紹介されるのを観ながら、これはルネッサンスで言う絵画とは別のジャンルのものだと感じるようになりました。ルネッサンスの絵画の魅力は色彩とかフォルムとか構図とかで語れるものではありません。それは人生の手触りのようなもの、人生の重さや厚さ、抵抗感や滑らかさの入り混じった厚みのある人生の予感のようなものだったのです。人物画は一遍の小説のようですし、集団が描かれるのは壮大な叙事詩のようでした。絵画をこのようなものとしてはじめた者にとって、絵画的な色彩とデザイン的な色彩とは全く別の意味を持ち、デッサンも構図も全く別のものです。20世紀には映像は人生を語り続けましたが、絵画は中世のように天国と地獄をメルヘンとして描いているだけでした。



AP1012436

by カネダオサム


ブログ村 ランキングに反映されますので下アドレスのクリックお願いします


若い人の作品の中で妙に記憶に残った作品があります。風呂屋の富士山の絵にヌードをコラージュしたような絵で、『きっとここに戻ってくるだろう』と題した大西美来さんの絵で、絵画の原風景をイメージしているのでしょう。日本人風の裸婦の背後にはピエロ・デラ・フランチェスカ風の荒野と空が広がり、画面右端に浮世絵風の富士山が恥ずかしそうに描かれていました。モダンアートスタイルの作品の多い中にぽつんと置かれていました。作者の困惑とそれを打開する論理と制作とがはっきりと描かれています。現代の芸術観では作品のオリジナリティーは感覚的に自己表現から生まれたものと考えられていますが、自己表現の自己は自己の感情や感性だけではなく、絵画についての様々の考察や思考あるいは仮説や希望も第二の自己と考えられるでしょう。一見地味な作品でしたが絵画制作の動機にはこのようなものがあると考える若い人がいるのにホッとした一瞬でした。





APB080870

by カネダオサム


ブログ村 ランキングに反映されますので下アドレスのクリックお願いします

↑このページのトップヘ